味噌みそと神様

みそと神様

味噌天神 本村神社

味噌の神様を祀った神社があります。

熊本県の本村神社がみその神様です。

 

正式名称は本村神社。

 

伝承によると、味噌天神は奈良時代の713年(和銅6年)、元明天皇の御世に建立されました。
肥後の初代国司 道君首名(みち の おびとな)のとき、悪疫が流行して多数の死者が続出し、人々は悩み苦しみました。
そこで肥後守 道君首名は、疫病平癒祈願のために神薬の神「御祖(みそ)天神」を祭祀したのがはじまりで、まもなく疫病はおさまったと伝えられています。
その後、肥後国分寺の味噌倉の守護神となったので味噌天神と呼ばれたそうです。

 

神社の境内に生えている笹はみその味を良くするというので戦前は各地からもらいに来る人が絶えませんでした。
学説では天神の御衣(みそ)を納めた「御衣天神」であろうとされています。

 

天神さまですが奈良時代からゆかりがあるので、菅原道真公を祀った天神さまとは異なりますね。

 

社は小さいですが、熊本市電の味噌天神前停留場、バス停も味噌天神、すぐ隣にある派出所は味噌天神交番という名称で、地域に親しまれているのがうかがえます。

 

毎年10月25日の例大祭では、みそ汁がふるまわれるなど賑わいをみせます。

 

住所  〒862-0973 熊本県熊本市中央区大江本町7-1
TEL  096-362-4618

 

平安時代 醤院 に祀られた神様

 

『延喜式』は、平安時代中期に編纂された律令の施行細則で、ほぼ完全に残っているので当時の中央政府の組織を知る貴重な史料です。

 

史料『延喜式』でも、大膳職、主醤という役職について抜粋しましたが、宮中の各役所にそれぞれお祀りした御神名も記録されています。

 

大膳職には御食津(ミケツノ)神社、火雷(ホノイカヅチノ)神社、高倍(タカベノ)神社の三座祀られていることが記されていて、さらに醤院にお祀りされている御神名 高部神もありました。
 御神名が書かれている『延喜式』の二つの職は こちら

 

高倍神、高部神。どちらもタカベノカミです。

 

『延喜式』の編まれ方が「神祇」に始まり、現代よりはるかに目に見えない存在を重んじた時代です。よりよい醤が製造できることを願って、神様に御加護いただいていました。

 

高部神・高倍神は今、どこへ?

 

御祭神は、現在、どちらでお祀りされているのでしょうか。
明治維新で御所が江戸に移った際に、『延喜式』に書かれているまま宮中三殿にお祀りされているのとは別に、一般人が御祈願できる形はないか探してみました。

 

千葉県南房総市(旧千倉町)に高家(たかべ)神社がありました。
御祭神は磐鹿六鴈(いわかむつかり)、天照皇大神、稲荷大神の三神。

 

 


 

現在は日本で唯一の料理の祖神として信仰を集めていて、毎年10月と11月に包丁式が執り行われ、式包丁と真魚箸(まなばし)のみで手を使わず魚を捌く四條流の包丁使いが披露されます。

 

調理関係者のほか、味噌醤油の醸造メーカーからも信仰を集めており、地元千葉の大手醤油メーカーの工場敷地内にもお祀りされています。

 

御祭神の 磐鹿六鴈 とは

 

御祭神の磐鹿六鴈は第8代孝元天皇の皇子 大彦命(おおひこのみこと)の孫で日本書紀に登場します。
 日本書紀の磐鹿六鴈命の段はこちら

 

磐鹿六鴈を祖とする高橋氏は膳(かしわで)氏とも呼ばれ、代々、内膳司を努めた古代氏族です。高橋氏は同僚の安曇氏と勢力争いをした時に、家系の正統性を『高橋氏文』にまとめ献上しています。

 

『高橋氏文』によると、磐鹿六鴈を縁にして、上総国の安房大神(安房神社 / 千葉県館山市)に大膳職で祀られていた御食津神(文中では御食都神と表記)を奉斎したとあります。
 『高橋氏文』の記載は こちら

 

 

 

 

『上記』にみられる味噌の神様

『上記(うえつふみ)』は漢字が日本に伝来する前の超古代史ともいわれ、神代文字で書かれています。漢字文化の大和朝廷になって以来、偽書とされてしまっている古史古伝書です。

 

山窩作家であった三角寛(1903〜1971年)氏の『味噌大学』では、味噌の神様が神代文字で紹介されていました。

 

 

 

母は味噌豆の大豆を煮るときが来ると、大竈の下を掃き、塩で清めて火を入れる。そのとき私ども眷属を竃の周囲に呼び集め、味噌の神様に御礼を申さにゃ。と云って竃に合掌させられた。この味噌神さんは天照大神の時に味噌を発明された熊野奇日命と申し上げる天神で、穴門の国で、始めて人民の為に味噌を発明された味噌神さんだと伝承させられてゐた。

 

『味噌大学』三角 寛より

 

『上記』は豊後の国守護の大友能直が編纂したと伝えられ、1837年(天保三年)に発見された古伝書です。大分県出身の三角氏の地元では、広くクマヌクスビノミコトが味噌神様として崇められていました。

 

文中、クマヌクスビノミコトは漢字で「熊野奇日命」。穴門の国(後の長門の国。現在の山口県)で味噌を発明したと書かれています。

 

天照大神の時に味噌を発明された、とあるのでまず古事記と日本書紀で確認してみました。

 

『古事記』『日本書紀』でのクマヌクスビノミコト

 

古事記と日本書紀にはクマヌクスビノミコトに似た御神名が登場します。
アマテラスオオミカミとスサノオの誓約の段で生まれた神の1人です。

 

古事記では、速須佐之男命が天照大神の玉をかみ砕いて生んだ5番目の神で熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)。
日本書紀では、同様に素戔嗚が天照大神の玉をかみ砕いて5番目に生んだ熊野豫(正しくは木へんに豫/以下同)樟日命(くまのくすひのみこと)、一書には熊野忍蹈命(くまのおしほみのみおと)、一書には熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)、一書には熊野忍蹈命(くまのおしほみのみおと)または熊野忍隅命(くまのおしくまのみこと)とあります。

 

いずれにしても最後(5番目か6番目)に化生した神で、天照大神の御手と髻(みずら)や鬘(みかずら)にお巻きになった八咫瓊(やさかに)の五百箇御統(いおつみすまる)の玉から生まれたので天照大神の子となっています。古事記や日本書紀でクマノクスヒの名前が見られるのは誓約の段のみです。

 

祀られている神社を『延喜式』巻九 神祇で探したところ、御神名の熊野にちなんでいてかつ社格も相応のものは出雲国の熊野坐神社(くまののます神社)、紀伊国の熊野坐大社(いずれも名神社)、熊野早玉神社ですが、いずれも御祭神はスサノオのようで、神社として大きく祀っている社は大きな宮では見つかりませんでした。
 

『上記』でのクマノクスビノミコト

 

三角寛氏の書かれた『上記(うえつふみ)』に当たってみました。

 

 

 

 


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