『徒然草』 時の権力者も味噌を肴に楽しい酒
鎌倉幕府の第5代執権 北条時頼(最明寺入道)が存命中のエピソードです。
『徒然草』 第二百十五段
平宣時朝臣、老ののち、昔語りに、「最明寺入道、ある宵の間に呼ばるる事ありしに、やがて、と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、又使来りて、直垂などのさぶらはぬにや。夜なれば異様なりともとく、とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにてまかりたりしに、銚子に土器とりそへて持て出でて、この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。さかなこそなけれ、人はしづまりぬらん。さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ、とありしかば、指燭さして、くまぐまをもとめし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少しつきたるを見出でて、これぞ求め得て候、と申ししかば、事足りなん、とて、心よく数献に及びて、興にいられ侍りき。その世にはかくこそ侍りしか」と申されき。
『日本古典文学全集 27』(小学館)より
〔おおよその意味〕
平宣時の朝臣が、老後、昔話に「最明寺入道(北条時頼)が、ある宵のうちに私をお呼びになったことがあったときに、『すぐ参ります』と申しながら、直垂がなくてあれこれしているうちに、再び使いが来て『直垂などがおありにならないのでしょうか。夜なので整った服装でなくてもよいから早くおいでなさい』と言われたので、よれよれの直垂を内々の家にいるままで参りましたところ、銚子に素焼きの器をとりそえて持って出て『この酒を一人で飲むのがものたりなく寂しいのでお願いしたのです。肴がないが、人は寝静まってしまっただろう。肴になるようなものがあるか、どこまでも探してください』とおっしゃったので、指燭をともして隅々を探しているうちに、台所の棚に、小さい素焼きの器に味噌が少しついているのを見つけ出して、『これを探し出しました』と申しましたら『それで間に合うだろう』と言って、愉快に杯を重ねて、面白がられました。あの時代ではこのようなことでございました」と申された。
北条時頼(1227〜1263年)は1256年(康元元年)、義兄の北条長時に執権の座を譲り29歳にして最明寺で出家しました。引退・出家といっても実権は握っていたようです。
215段は、最明寺入道が存命中はまだ保たれていた質素な武家の生活を書き示すことで、筆者 吉田兼好の時代の権力者(鎌倉時代末期か)への批判を込めているとされています。
鎌倉時代はすり鉢が伝来することで味噌は汁に使われ出しますが、おかずとして食する嘗め味噌が主でした。