「田楽豆腐」 森 鴎外
森 鴎外(1862〜1922年)の短編で、1912年(大正元年)9月1日発行の『三越』で発表された小説に「田楽豆腐」があります。
江戸時代に庶民文化が花開き、料理本も多数出版され、落語や歌舞伎といった娯楽が発展した時代に田楽という食べ物は一般的になり、またいろいろな例えにも使われたようです。
江戸末期に生まれ明治に生きた鴎外の「田楽豆腐」もまた、田楽豆腐のカタチを例えてタイトルにしています。
自分が書いた文章のことで様々な批判を受けて不愉快なことも多いけれど、庭に草花を植えるのが趣味。苗を買うにも西洋の花しか買えないようになって名前もわからず仕舞い。散歩がてら小石川植物園へ花の名を調べに出掛ける。途中、くたびれた帽子を新しい麦わら帽子に買い替えた。
入り口で役人に促され入園札を卓上に置くが、不機嫌そうに棒で卓上の小さな穴を差された。ここに入れろ、とばかりに刺された棒は先に何かついていて、なにやら田楽豆腐のようなものだった。
さて園内で目当ての花を探す。植物名が書かれている田楽豆腐のような札があっても空き地になっていたり、花はあっても田楽豆腐は添えられていなかったり。
結局、花は見つからず名前もわからなかったが、満足感はあった。
『田楽豆腐』というタイトルですが、結局味噌は登場しません。
でもそれだけ田楽豆腐がなじみ深い料理で、頻繁にたとえに使われる例として挙げさせていただきます。
森鴎外は1892年から亡くなるまで、現在の文京区千駄木に観潮楼と称す居を構えていて(跡地は森鴎外記念館)、小石川植物園までは散歩にほどよい距離です。
実際、明治45年(1912年 7/30から大正元年)の鴎外の日記には、
6月23日に「晴。後陰。暑。午前妻、茉莉、杏奴を伴ひて小石川植物園に往く。」
7月14日に「夕に妻、茉莉、杏奴を伴ひて資生堂へゆく。夏帽子を買ふ。」
7月21日に「夜田楽豆腐を書き畢る。」という記載があります。