「四千両小判梅葉」 河竹黙阿弥 | 味噌みそと歌舞伎

「四千両小判梅葉」 河竹黙阿弥

歌舞伎と味噌みそ 世相が台詞に

 

「四千両小判梅葉」 河竹黙阿弥

 

 

幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作家の河竹黙阿弥(1816〜1893年)による「四千両小判梅葉(しせんりょう こばんのうめのは)」は、通称「四千両(しせんりょう)」と呼ばれた生世話物で、1885年(明治18年)11月、千歳座(現在の名称は明治座)で初演。

 

この演目に、江戸の味噌蔵の名が出てきます。

 

第一幕 四谷御門外の場
 
 …
伝次 おめえがそう堅人になっちゃア、おら達は附き合いにくいの。
九助 ごまじゃアねえが、お前の味噌は、めっぽうけえ味がよくついている。
富蔵 代物がよくなけりゃア、どうしても売れねえんだから、永代の乳熊迄わざわざ
  おれが買いに行くのだ。
伝次 道理で味がいゝと思った。味噌は乳熊にかぎるのう
九助 自身に乳熊へ買いに行くとは、それでは不断話にした国にいる女房子は、まだ
  江戸へ呼ばねえのか。
 …

『名作歌舞伎全集』〈第12巻〉河竹黙阿弥集 (1970年)より

 

 

永代の乳熊とは、現在の「ちくま味噌」、味噌の種類は江戸甘みそと思われます。

 

「四千両小判梅葉」は、浪人 藤岡藤十郎と野州無宿の富蔵による江戸城本丸の御金蔵破りの話で、安政の四千両盗難事件(1855年 / 安政2年)を実説どおりの人物世界で描き、特に牢内の活写により今でも比類のない実録物とされています。

 

第一幕は四谷見附市ヶ谷寄りのお堀端で、中間ぐでんの伝次、じぶくりの九助らが話しているところに「おでん燗酒、甘いと辛い」と呼びながら燗酒売り(おでん屋)の富蔵がやってくるところから始まり、上記の味噌の会話となるのです。
ここへ駕籠に乗って偶然通りかかったのが、後々御金蔵破りの片棒を担ぐ藤岡藤十郎。富蔵とは旧知の顔です。こうして六幕二十二話までの長編が始まります。

 

黙阿弥はすでに安政六年にこの事件を取り入れた生世話物をつくっていました(市村座公演「十六夜清心」)が、千代田城での大事件を舞台化するのは幕末ではまだ早く、明治の世となり、なるべく事実通りに作ることが奨励されてこのようなルポルタージュが生まれました。

 

この初演以来の名舞台が、六代目菊五郎(1885〜1946年)の富蔵と初代吉右衛門(1886〜1954年)演じる藤十郎のコンビ(菊藤コンビ)。
歌舞伎ファンにはたまらないと思いますが、六代目菊五郎はおでん売りの演技で、芋とコンニャクに味噌をつけるのが意外に難しく、本物のおでん屋に教わろうと思ったが初演が夏(大正4年7月)だったのでおでん屋が見つからず、仕方なく出入りの仕出し屋に教わった、というエピソードが残っています。

 

富蔵のおでん屋は売り口上を呼びながら登場したように天秤棒を担ぐような屋台の店で、今日一般的になった関東炊きのおでんではなく味噌をつける田楽のおでん屋です。

 

初演の劇場 千歳座は当時、団十郎、左団次を擁する新富座と対立していたことから、一日も早く初日を出そうと徹夜の準備を進め、新富座より二日早く開場しました。
また黙阿弥はこの興行で初日無料のほか場代を割引にし、役者の組合せを久しぶりの共演にして「久しぶりだなあ」と台詞で言わせたり、演目も安政の千代田城の御金蔵破りという禁断の内容だったことから大成功を収めました。

 

黙阿弥は実在の味噌屋の名を出していますが、実在の店や話題のものを上手に台詞や舞台大道具に取り込み、観客の心をつかむのが上手だったようです。

 

 


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