『續日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、日本正史といわれる六国史(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)のひとつです。
『続日本紀』 味噌を掌る役職 主醤司
天平十三年十一月の部分に主醤司の文字が見られます。
『續日本紀』 巻十四 聖武天皇(天平十三年八月〜十一月)
○十一月戊辰。右大臣橘宿祢諸兄奏。此間朝廷以何名號傳於萬代。天皇勅曰。号為大養徳恭仁大宮也。○庚午。始以赤幡班給大蔵。内蔵。大膳。大炊。造酒。主醤等司。供御物前建以為標。
『續日本紀 前篇』(吉川弘文館)より
〔読み下し文〕
十一月戊辰の日。右大臣橘宿祢諸兄奏す。この間朝廷何の名号を以てか万代に伝えんとす。天皇勅めいわく 大養徳恭仁大宮と為せんとなり。
庚午の日。始めて赤幡を以て大蔵、内蔵、大膳、大炊、造酒、主醤等の司に班(わ)かち給ひ。供御物前に建て以て標と為しむ。
〔おおよその意味〕
聖武天皇の治世、天平13年(741年)11月戊辰の日に右大臣 橘諸兄が申し上げる。この間、朝廷はどのような名号で後世万代に伝えようか、とした。聖武天皇がおっしゃるに大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)という名である、とのみことのりがあった。
11月庚午の日。大蔵、内蔵、大膳、大炊、造酒、主醤などの司に赤い旗をお配りになった。供御物の前に赤旗を立てて目印とさせた。
文中に出てくる恭仁大宮は現在の京都府木津川市に位置する都で、藤原広嗣の乱(740年)の後、平城京から同740年に遷都された都です。遷都期間わずか2年間で近江の紫香楽宮の造営が始まりましたが、恭仁宮という都の名前を決定した頃も主醤司という職があったことが読み取れます。