『茶話指月集』 千利休のもてなしに使われた柚味噌
『茶話指月集(ちゃわしげつしゅう)』は1701年(元禄一年)、久須見疎安(1636〜1728年)が義父 藤村庸軒(ようけん)からの聞き書きの形で出版された逸話集です。
藤村庸軒は、利休の孫である千 宗旦(そうたん)門下の四天王の1人。
利休没後100年余りを経て、その茶を説話によって伝えようとした書であり、本編に当たる茶話部分と、久須見疎安による茶道具名物記の二部から成ります。利休を中心に秀吉、宗旦、古田織部など江戸時代初期の古田織部の時代までを中心に取り上げています。
茶の湯と味噌のつながりは、もてなしに使われたものにありました。
〔あらすじ〕
守口というところ(大阪府守口市)にわび茶人がいた。利休とも旧知の間柄だったので、そのうちにお茶を差し上げましょうと約束をしていた。ある年の冬、利休は大阪から京都に上る途中に思い立って、夜更けにそのわび茶人を訪ねた。亭主(わび茶人)は喜んで迎え入れた。家の様子もわびたたずまいだったので、利休はたいそう喜んでいた。
しばらくすると窓に人が近づく気配がしたので見ていると、亭主が行灯と竹竿を持って出て、庭の柚子の木の下に行灯を下して、棹で柚子を二つばかり取って家の中に入って行った。利休は「柚子を茶湯の料理にするのだろうか。わび茶人のもてなしとは一段と趣の深いものだ」と思っていたところ、思った通り柚味噌に仕立てて運ばれてきた。
酒一献が過ぎた頃、「大坂から到来したものです」といかにもふっくらした肉餅(かまぼこ / ツミイレか)が持ち出されたので「さては事前に知らせがあって肴も準備していたに違いない。知らぬ顔をしていたとはわざとらしい」と興ざめしてしまい、酒が途中であるにもかかわらず、京に用事があると言って、どう引き留めても聞き入れずに出発してしまった。
わび茶人はありあわせで料理をして、似つかわしくないものは出さない方が良いものです。
詫びては、有り合わせたりとも、にげなき物は出さぬがよきなり。
ここでの逸話は残念ながら利休の意に副わなかった話ですが、千利休が生きた時代には趣のある柚味噌がおもてなしに使われていたことがわかる史料です。