『津軽』 太宰治 | 小説に描かれる味噌みそ

みそと小説『津軽』 太宰治

「津軽」 太宰 治

 

『太宰治全集〈7〉』 (ちくま文庫)

 

 

太宰 治(1909〜1948年)の小説『津軽』に、津軽の人たちが太宰を歓迎する姿と津軽料理が描写されています。

 

「…果たしてお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽でなければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」 

 

卵味噌のカヤキはみそ料理 青森県でも取り上げていますが、どのような料理かは太宰によると下記のようなものだそうです。

 

…この卵味噌のカヤキなるものに就いては、一般の読者には少しく説明が要るように思われる。津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキという工合に呼ぶのである。貝焼の訛りであろうと思われる。 (中略) 私の幼少の頃には、津軽に於いては、肉を煮るのに、ホタテガイの大きい貝殻を用いていた。貝殻から幾分ダシが出ると妄信しているところも無いわけではないようであるが、とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではないだろうかと思われる。 (中略) 卵味噌のカヤキというのは、その貝の鍋を使い、味噌に鰹節をけずって入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。…

 

『津軽』は、1944年(昭和19年)11月刊行。『新風土記叢書』の第7編として出された長編小説で、新風土記叢書にはほかに『大坂』(宇野浩二)、『熊野路』(佐藤春夫)、『佐渡』(青野秀吉)など全9編ありました。

 

太宰はこの取材のために実際に1944年5月中旬から6月初めにかけて津軽を旅行していますが、6月8日に妻 美知子が長女園子を出産。『津軽』が完成したのは7月末で、「女房出産やら、何やらかやら五、六、七月まるで無我夢中でした。(中略)あちこち往来しながら、それでも『津軽』三百枚書き上げました。」と版元の小山書店の小山信宛の手紙にあります。

 

この取材旅行について太宰は『文化展望』(昭和21年4月号)掲載の「十五年間」の中で、
「…私は、自分の血の中の純粋の津軽気質に、自身に似たものを感じて帰京したのである。つまり私は、津軽には文化なんてものは無く、したがって、津軽人の私も少しも文化人では無かったという事を発見してせいせいしたのである。それ以後の私の作品は、少し変わったような気がする」

 

旅から帰った太宰がようやく書いた『津軽』には、
「…だいぶ弘前の悪口を言ったが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。」

 

津軽富士と呼ばれる岩木山、弘前城、青森といった地勢のほか人々の気質も描かれていますが、純血種の津軽人、太宰の作品に卵味噌のカヤキを見つけて、素直にうれしく思いました。

 

卵味噌のカヤキ(貝焼き)はこちら

 


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