「味噌を擂る吉野」 森 銑三 | 随筆の中の味噌みそ

「味噌を擂る吉野」 森 銑三

「味噌を擂る吉野」 森 銑三

 

『森銑三著作集 続編 第三巻 人物篇三』

 

 

歴史学者 森 銑三氏(1895~1985年)の人物小説に、「味噌を擂る吉野」があります。
1928年(昭和3年)に雑誌『騒人』に「妻となった吉野太夫」というタイトルで発表されたものです。

 

京の名跡 二代目吉野太夫(1606〜1643年)が時の豪商 灰屋紹益(はいや ぞうえき)に身請けされ結婚するときの逸話を、尾張藩の武人 近松茂矩(しげのり)の『昔咄』に基づいて書かれています。

 

元々武士の家に生まれた吉野は美貌はもちろん芸事のほか書道、華道、香道、囲碁などをも極めた稀代の名妓で、文化人 本阿弥光悦、関白 近衛信尋らとも交友がありました。

 

身請けする灰屋紹益は、金があるだけの単なる豪商というわけではなく文化人としての深い素養もあり、そのような家格に吉野が嫁ぐとなると家人の大反対もあり、紹益は勘当されます。

 

しかし吉野の機転と愛想のある美しさから紹益の勘当も解かれ、逆に吉野は灰屋家の嫁の中で手本になる三国一の嫁とまで言われるようになったのです。

 

吉野太夫は井原西鶴『好色一代男』(1682年刊行)にも書かれ、主人公の世之介に「これぞ女郎のあるべき姿」と言わしめ嫁にひかれたとあります。後年の物語の中のエピソードですが、ある程度実話に基づいているともいわれ、吉野太夫は夕霧太夫、高尾太夫と並んで寛永三名妓と称されました。

 

 吉野は味噌を擂ってゐる。

 桜の咲いたうららかな春の日、浅黄木綿の単へ物に赤い前垂をかけ、真新しい手拭いをかぶって廓を出てから半年の間にすっかり世話女房となった彼女は、器用な手つきで、勝手元に味噌を擂ってゐる。

 その日は、夫紹益の勘当のゆりた祝に、夫の母親を始として灰屋一門の女達が、紹益と吉野との新居に来てくれるのだった。吉野はその支度に忙しい。

 

紹益の勘当が解けた祝いに、灰屋一門の女性たちが紹益と吉野の新居に訪れます。
手料理の準備に忙しい吉野の味噌を擂る姿は、太夫として遊郭に君臨していた姿とはかけ離れていて、結婚してすっかり町人の妻となった姿が表わされています。

 

江戸時代初期の京都の話です。
この味噌はおそらく白味噌と思います。
味噌摺りは家事をする者には調理時の当たり前の姿でした。

 

みそをなめらかにする漉しの工程がみそ工場に入ったのは戦後になってからです。
それまで味噌は麹や大豆の粒が残っているのが普通で、調理前に擂って粒をなめらかにしたものでした。

 


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