「玉味噌」 杉田玄白 | 随筆の中の味噌みそ

随筆の中のみそ「玉味噌」 杉田玄白

「玉味噌」 杉田玄白

 

『日本の名著〈22〉』杉田玄白・平賀源内・司馬江漢 (中公バックス)

 

 

江戸時代の蘭学医で『ターヘルアナトミア』の翻訳本『解体新書』、自身の回想録『蘭学事始』で有名な杉田玄白(1733〜1817年)が、「玉味噌」を著しています。

 

「玉味噌」は1805年(文化二年)、玄白73歳の晩年に著したもので、本書でも「晩年の思想」というくくりで掲載されている随筆です。

 

…田舎の人が作る玉味噌というのがあるが、これは味が悪く、ことにその匂いなど嗅ぐにたえないほどのものである。また一方どういうわけからか、自分のことを自分でほめる、自慢することをも味噌という。 

 

玄白先生、あまり玉味噌で良い思いをしていないようです…。
医家の家に生まれた玄白は江戸牛込(現在の東京都新宿区神楽坂あたり)にある小浜藩下屋敷で生まれ、7〜12歳を小浜で過ごし、再度父親が江戸詰めを命じられて江戸に戻ります。

 

小浜藩は現在の福井県にあたるので杉田玄白が口にしていたのは越前みそか、当時江戸で出回っていた仙台みそかもしれません。

 

玉味噌から麹をつくる製法は、麹歩合が低くて大豆の量が多い東北や東海地方のほか数か所で軒に玉味噌をぶらさげる伝統的なみそのつくり方がありますが、うま味が濃い分、その香りなど玄白の好みではなく田舎臭いと思えたのでしょうか。

 

ここにあるこの書きものは、いわばその手前味噌のなかの玉味噌のたぐいであって、嗅ぐにたえないものだ。

 

当時としては長命の73歳のときに書かれた「玉味噌」は、満ち足りた老年を迎えられた手前味噌の自慢を入れつつもまだ尽きない欲と夢を記したもので、自嘲自虐と謙遜を込めて、嗅ぐにたえない玉味噌をタイトルにしたようです。

 

鴨長明の住まいにならって山谷あたり(現在の渋谷区代々木あたりか)の野辺に小さな家をつくってときどきそこに住まいたい。
鉄砲洲あたり(現在の中央区の隅田川河口あたり)の海辺近くに小さな家をつくりたい。
お茶の水あたりにもう一軒同じような家をつくっておいて梅がほころび始めるころにはそこに移りたい。
…と、現代なら縁側付き1Kと思しき家の間取りと引っ越しセットともいえる道具箱の図まで記されて、季節や気分で住まいを変えたいという願望が書かれています。

 

藩医として勤め俸禄も先代の倍以上になり『解体新書』の発表で天皇皇后両陛下、将軍からも覚えめでたく金銀を下賜され、孫にも恵まれた何不自由ない老年を迎えながらもつきない欲としている夢は、贅沢なものですが誰でも抱きそうな、実現しにくいから空想で楽しみ、「こんな家がいいんだよな〜」と家の間取りまで楽しくメモしてしまう。
江戸の高名な杉田玄白もそんな妄想をしていたなんて(本人は大まじめかもしれませんが)、ちょっと楽しい発見でした。

 

味噌はことわざでは良いもののたとえで使われますが、慣用句になるとあまり良い意味でつかわれていません。玄白先生も臭くて耐えられないものとして玉味噌を使っているので、江戸時代にはそのイメージが定着していたのでしょうか。

 


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