『深沢七郎の滅亡対談』 深沢七郎 | 随筆の中の味噌みそ

みそと随筆『深沢七郎の滅亡対談』 深沢七郎

『深沢七郎の滅亡対談』 深川七郎

 

『深沢七郎の滅亡対談』 (ちくま文庫)

 

 

作家深沢七郎氏(1914〜1987年)による対談集で単行本は1971年に刊行。井伏鱒二、大江健三郎、山下清ほか、幅広い業種の人たちとの対談が19本収められています。

 

作家の野坂昭如氏(1930〜2015年)との2回の対談の1つが「味噌とギターと御詠歌と」というタイトルです。

 

深沢七郎氏は42歳で処女作『楢山節考』を著し、ベストセラーになりました。
旧制中学卒業してギタリストになりリサイタルを開いていたほか、『楢山節考』の後は、過激な表現があった自著を端とした嶋中事件で断筆。持病の心筋症と闘病しながら埼玉県の菖蒲町(現在の久喜市菖蒲地区)でラブミー農場を開いたり、墨田区の東向島で今川焼屋「夢屋」を開き、傷害容疑で起訴されるなど、やらなかった職業を数えたほうが早いくらいの、稀代の作家と言われる人です。

 

「味噌とギターと御詠歌と」の対談当時(1970年)は、埼玉の菖蒲町で味噌屋をやっている、という話が出ています。

 

野坂 じゃ、いまはもっぱらお味噌をつくっているらっしゃるんですか。
深沢 つくるって、仕込むときに仕込んでおけば、あと自然にできあがります。親せきや知り合いのものが、自家でつくった味噌はうまいっていうものですからね、で、味噌には自信はあったけど、やはり商売としてつくると、それほどうまくつくれませんね。

 

深川氏の味噌屋がどの程度の規模だったのかわかりませんが、自家製味噌を売り出した時もあったようです。

 

野坂 ぼくはいまから十五年くらい前に新潟県のお寺に入っていたんです。そこでお味噌を、檀家の人たちがきてつくるんですけど、味噌玉っていうんですか、あれを軒下にずっとこう並べて……。
深沢 寒いときにね。寒仕込みというやつです。
野坂 あと、それを菜切包丁みたいなので中身だけ崩して、それに麹を混ぜるんです。そんなやり方でやってました。
深沢 新潟の佐渡味噌というのは、いちばんうまいんじゃないですか。私は病気で百姓ができなくなっちゃったから、みそを作るか、それじゃなかったら、どっか温かい部屋で今川焼屋をやろうかと思ってます。

 

『火垂るの墓』で直木賞を受賞した野坂氏が味噌づくりを経験したのは新潟のお寺。
下宿先の親戚の家で窃盗をして多摩少年院へ送られ、自分が生まれる前から実母と別居していた実父が保証人となって釈放され、新潟へ移ったという経緯があります。

 

深沢 …(略)。味噌屋だって、わりかた評判いいんですよ、味噌を食べた人の評判は。いいと、もういやんなっちゃいます。まずいなんていわれると、意地でもうまく作ってやろうと思うけれど、いいといわれると、つまんなくなっちゃうですね。

 

やらなかった職業を数えたほうが早いという深沢氏。「飽きちゃって」と次の商売を考えています。

 

「いま農家でも味噌をつくっているのは3軒くらい」という発言があります。埼玉県の農家でも味噌は買うのが一般的になっていた1970年頃、菖蒲町の上大崎という村で、味噌をつくるおじいさんとおばあさんを連れてきて、講釈聞いて手伝ってもらいながらつくったのが初めだと語っています。

 

1968年から学園紛争時代の幕が開き、若者たちが集団的に既成の権威への疑いに目覚めたそのころ、埼玉県菖蒲町にヒッピーの元祖らしきおじさんがいる、ということでラブミー農場は招からざる客で妙に賑わい、マスコミも殺到し、ついに人間滅亡教の教祖とまで持ち上げられた深沢七郎現象がありました。

 

型にはまった人物像では計り切れませんが、「ぼくはおこうこ(漬物。特に沢庵)とみそ汁があればなんにもいらないくちだから。」という深沢氏が自給自足まではいかないけどつくり始めたのが味噌なのは、やっぱり自分でもつくれて、食事には欠かせない調味料だから。

 

手前味噌でも意外においしくできちゃうから、飽きちゃったんですね。

 


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