狂歌は江戸時代中期に独自の分野として発達しました。特に天明狂歌と呼ばれる全盛期は社会現象化し、大田南畝(蜀山人)や、朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり)らがよく知られています。
社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の音で構成した和歌です。
江戸時代の狂歌に詠まれる味噌
まず寛永年間(1629〜1644年)の刊行とされている『新選狂歌集』から。
作者名は出していない歌が多いです。
麹屋と畳差隣合にて火事出来、類火あまた
ありければ、対決におよびける時、楽書に
麹屋は寝入端とて置きまする火は一定(いちじょう)と畳屋にさす
出典:『新選狂歌集』
『新日本古典分文學大系61』(岩波書店)より
〔おおよその意味〕
判決の形式をとって、麹屋は寝入りばなであるから除外しよう、出火は畳屋であると指示しているぞ。
「楽書」は落書。「畳差」は畳屋のこと。畳を縫うことを差すと言います。
「麹」から寝る=室にねかせる・「端(ばな)」から花=糀花、「畳」から「一定」=一畳、差すを導き、「置く」と「起く」を懸けて「寝る」の対語として配置しています。
続いて『古今夷曲集(ここんいきょくしゅう)』。書名は『古今和歌集』にちなんで付けられており1666年(寛文六年)京の版元から刊行。前期狂歌隆盛の端緒となった集です。
いろりぬるをみてよめる 貞徳
田楽をあぶらん為のゐろりとて先なまかべを付にける哉
出典:『古今夷曲集』
『新日本古典分文學大系61』(岩波書店)より
〔おおよその意味〕
囲炉裏の内壁を壁土でぬるのをみて詠んだ歌 貞徳
豆腐田楽を焙るための囲炉裏といってまず生の豆腐をつけてしまうことよ
「いろり」は周囲を壁土で塗ります。
「田楽」は豆腐を串に刺し山椒を擂り込んだ味噌(木の芽味噌)をつけて焙りました。
「なまかべ」まだ乾いていない壁土と豆腐の異名「かべ」を懸けています。
紀伊国にまかりけるに、あひしれる僧の「是に
足もとゞめよかし」なれど、心留らざりけるを、
「是非」とてわらぶきのせばき庵をえさせけるに、
何の役もなくしばらくあるとてよめる 道明
わらぶきのむろにあけくれねさせつゝあるじは我を麹にやする
出典:『古今夷曲集』
『新日本古典分文學大系61』(岩波書店)より
〔おおよその意味〕
紀伊国を訪れたところ、よく知っている僧侶の「ここに
足を留めて(泊まって)いきなさいよ」といわれたが、気は進まなかったのを、
「是非」といって藁葺の狭い庵をえさせたが、
何の良いこともなくしばらくいるといって詠んだ 道明
わらぶきの室に明け暮れ寝させながら ここのあるじは私を麹にしてしまうことだ
「むろ」は僧侶の住居。麹室の「室」を懸けています。麹室は一定の温度と湿度を保つため穴蔵ないしは土を厚く塗って立てた小屋です。
「ねさせつゝ」は、人を寝かせる と 麹を寝かせるを懸けています。
時代は下って『徳和歌後万載集』。1784年(天明四年)刊行で、社会現象化した天明狂歌の真っ只中です。
野遊
田楽の木の芽に腹もはるの野や霞の帯をゆるめてぞくふ
元 木網(もとのもくあみ)
出典:『徳和歌後万載集』
『新編日本古典文学全集 黄表紙 川柳 狂歌』(小学館)より
〔おおよその意味〕
田楽の木の芽味噌の味に腹も張るような 原っぱは春の野だなあ 霞の帯をゆるめて食うことよ
「腹も張る」と「原も春」が掛詞。
木の芽味噌の田楽を食べる楽しみと、野遊びの楽しみを詠んでいます。「帯をゆるめてぞ食う」が狂歌らしく滑稽です。
元 木網(1724〜1811年)は天明狂歌歌壇の最古参の一人で、嵩松(すうしょう)の名で絵も描いた。国学の素養も深く平易な詠みっぷりで狂歌を大衆化しました。
蛍とる数もひとふたみそこしによつゆもいつかむすびけるかな
宿屋飯盛(やどやのめしもり)
出典:『徳和歌後万載集』
『新編日本古典文学全集 黄表紙 川柳 狂歌』(小学館)より
〔おおよその意味〕
味噌漉しというものに蛍を入れたのを見まして
蛍をとる数も一、二、三、みそこしに四、夜露も五いつか、六むすんでしまう(終わってしまう)のかなあ七
一、二、三と数詞を六まで数え立て、「三」と「味噌漉」、「四」と「夜露」、「五」と「何時か」、「六」と「結び」を掛け「七」「(か)な」で結ぶ。
蛍を捕らえては味噌漉しに入れ、入れているうちにいつの間にか夜も更けて夜露もきえてしまいます。
宿屋飯盛(1753〜1830年)は狂歌四天王の一人に数えられました。蔦屋重三郎から多くの狂歌書を出版するなど活躍しましたが、寛政初年に事に連座して江戸追放の身となります。雅望の名で国学者としても知られる人です。
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