川柳は五・七・五の音を持つ俳諧連歌から派生した文芸です。
俳句が発句から独立したのに対し、川柳は連歌の付け句の規則を、逆に下の句に対して行う前句付け(前句附)が独立したものです。俳句のような季語などの決まり事はなく、口語のことば遊びの性格も持ちます。
江戸時代の川柳に詠まれる味噌
みそらしく出しがらを干すけんどんや 〈前句〉はなれ社(こそ)すれすれ
作者:市がへ はつせ
出典『川柳評万句合』明和二年十月十五日
『新編日本古典文学全集 黄表紙 川柳 狂歌』(小学館)より
〔おおよその意味〕
はなれた広場に得意そうに出しがらを干す蕎麦屋であるよ
みそらしく…得意そうに
出しがら…出汁を出した昆布や小魚の殻。
けんどんや…慳貪(けんどん)とはレール状になっている蓋や扉の建具をいう。出前用の岡持ちがこの構造なので「けんどん箱」は岡持ちのことを指すようになった。さらに「けんどん屋」で蕎麦屋・うどん屋を指すようになった。
1765年(明和二年)の句。
昆布出汁は何度も干して使用できるし、そのほうが微妙な味が出る。うどん屋はいかにも店が流行っていると見せびらかしに出し殻の昆布を離れた広場の棹に干す。
干し昆布や煮干しには匂いがするしハエもたかる。遠くに干すのはそういう意味でもあります。
慣用句の「みそらしい」が使われていたので採り上げました。
みそや米しょつて小仏とうげこし 〈前句〉ならび社(こそ)すれすれ
作者:市がへ はつせ
出典『川柳評万句合』安永五年十月二十五日
『日本古典文学全集46 黄表紙 川柳 狂歌』(小学館)より
〔おおよその意味〕
味噌や米をしょって小仏峠を越えるあれだけたくさんの人数だから、さぞかしにぎわうだろう。
1776年(安永五年)の句。
信濃者と呼ばれ大食いの代表にされた冬季の出稼ぎ人が春になって帰郷するところを想像した句。
小仏峠は甲州街道の要所で、武蔵国と相模国の間に小仏関(現在の八王子市)も置かれていました。
当時信濃は貧しく米や塩には常に不便をしていて、肉体労働、多くは米搗きをしていくらかの金をため、それで米や味噌を買って故郷へ帰りました。
哀愁を感じるか風刺を感じるか、今日の感覚とは異なるとは思いますが、当時は悪意もなく量産していました。
和暦では宝暦→明和→安永→天明→寛政…と続きます。川柳、狂歌、黄表紙など江戸庶民の文芸が盛んになり始めたころです。
『俳風柳多留』 味噌はこう詠まれた
『誹風柳多留』は1765年(明和二年)に最初の刊行がされ、幕末までほぼ毎年刊行されていた句集です。編者の柄井川柳の号から「川柳」と呼ばれるようになりました。
編者が句の配列に趣向を凝らしていて、詠んでいる情景が次の句に連想されるような句移りの楽しさがあります。ここでは味噌にまつわることばが出てくる句のみを取り上げましたが、前句からの連想、さらに後の句へと続いています。
擂鉢を押へる者が五六人 〈前句〉にぎやかなこと にぎやかなこと
宝暦九年閏七月五日
『新潮日本古典集成 誹風柳多留』(新潮社)より
〔おおよその意味〕
大の男が五〜六人も寄って、がたつく擂鉢の扶持を押さえ合って、いかにも楽しそうだ
長屋の連中が初鰹で一杯やりたさに、割り勘で買ってきたと見れる。辛子味噌を作りにかかっている図で、味噌摺りの擂鉢は転がるので押さえ役が必要。五〜六人はてんで交代に手出しをする様子です。1759年(宝暦九年)の作。
田楽をおもしろく喰ふ座頭の坊 〈前句〉上を下へと 上を下へと
宝暦十二年
『新潮日本古典集成 誹風柳多留』(新潮社)より
〔おおよその意味〕
座頭の坊が田楽を食うのを見ていると、口あんぐりと、その喰い方のなんとおもしろいこと
「座頭」は盲目の遊芸人。遊里の酒宴の座興をつとめました。盲目のため所作がどこか常人とちがう。とりわけ味噌のたれ落ちやすい田楽を食べるときの様子を傍らで眺めている人が、上手なもんだと感心している様子です。1762年(宝暦十二年)の作。
日和見の味噌気で傘を下げて出る 〈前句〉極めこそすれ 極めこそすれ
宝暦十一年
『新潮日本古典集成 誹風柳多留』(新潮社)より
〔おおよその意味〕
天気占いの得意な男が、これ見よがしに傘を提げて出かけることよ
「日和見」は天気の予測のこと。「味噌気」は得意気なふるまい。
今日はきっと降ると、得意げに傘を持っている様子です。1761年(宝暦十一年)の作。
丸顔を味噌にしてゐる軽井沢 〈前句〉ほんの事なり ほんの事なり
宝暦十二年
『新潮日本古典集成 誹風柳多留』(新潮社)より
〔おおよその意味〕
丸顔を鼻にかけて一かどの美人顔だ。まったく笑わせるよ軽井沢の飯盛りは。
「味噌にして」は自慢にするの意味。中山道の宿場町 軽井沢は田舎臭い飯盛り女郎で有名でした。丸顔はすでに江戸人の好みではなかったのですね。1762年(宝暦十二年)の作。