「みそかりにやるとて」 和泉式部
平安時代中期の歌人 和泉式部(978年〜没年不詳)に、味噌を詠んだ歌があります。
『和泉式部続集』
二月ばかり、味噌を人がりやるとて
花に逢へばみぞつゆばかり惜しからぬ飽かで春にもかはりにしかば
『和泉式部集 和泉式部続集』(岩波書店)より
「身ぞ」と「味噌」が掛詞になっています。
〔おおよその意味〕
二月ころ、味噌を譲ってほしいと使いの人をよこすというので
桜の花に逢えるならば、自分の身は大事にしている味噌と同じように少しも惜しくはないなあ 満足しないで春にもかわってしまったのでしょうから。
和泉式部のもとまで味噌を譲り受けに使いの者をやるのは、宮廷官吏など身分の低くはないお方でしょう。「身ぞ惜しからぬ」と、自分の身さえ惜しくないと気持ちを捧げる相手に、貴重な味噌は惜しくないから差し上げますよ、と伝えています。
同じ歌でも時代によって漢字表記が異なる
各社から出版されている和泉式部続集の歌を眺めていると、同じ歌でも漢字表記が異なっているのがわかります。
和泉式部は平安時代の女流歌人ですから、和歌は濁点のない仮名文字で書かれていたはずです。それが後年、活字になるときに読みやすさの便に漢字で表記されました。
まず明治時代に一部刊行された『続群書類従』での表記です。
二月許みそを人かりやるとて
花にあへはみそつゆ計惜しからぬあかて春にもかはりにしかは
『續群書類従 第十六集』巻第四百四十八 和泉式部續集(續群書類従完成會)より
ここでは味噌は平仮名の「みそ」。
みそ以外にも歌のなかで漢字表記の異なる部分はありますが、とりあえず「みそ」に焦点を当てて見ています。
この『続群書類従』を底本とし『丹鶴叢書』(たんかくそうしょ 1847〜1853頃刊行)を参考にしたものが『覆刻 日本古典全集 和泉式部全集』(現代思潮新社)です。1927年(昭和2年)発行。与謝野晶子(1878〜1942年)編纂の下、味醤と表記しています。
二月ばかり、味醤を人許遣るとて
花に逢へば身ぞ[味醤]つゆばかり惜しからぬ飽かで春にも変りにしかば
『覆刻 日本古典全集 和泉式部全集』 和泉式部続集(現代思潮新社)より
大正〜昭和初期ころは「味醤」。
ここで冒頭の岩波文庫(1983年初版)に戻ります。
底本は『榊原家蔵忠次文庫旧蔵本和泉式部集 続集』ですが、漢字表記の凡例に、底本を忠実に活字に移す方針を挙げつつ読解の便に「仮名のままでは読みづらいものや、読みあやまりやすいものは、任意漢字に改めたが、その場合は、底本の仮名を振仮名として残した。…」とあります。
みそはいろいろな字が充てられてきましたが、昭和58年当時には少なくとも「味噌」という漢字が一般的になっていた、といえると思います。